昭和48年10月30日 朝の御理解



 御理解 第23節
 「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れる様にすると信心にならぬ。神に近寄る様にせよ。」

 氏子が神と仲ようする信心。神様と仲ようなると云う事は、どう云う事だろうか。是は人と人との場合であっても、仲の良い人仲の悪いひと、まあそれが一番実感として解る訳です。信心というのはだから親子が仲ようする、夫婦が仲ようする、兄弟が仲ようする。隣近所と仲ようすると云う様に、仲ようしょうと思うけれども、仲ようなれないと云う事があります。こっちは仲ようしたいと思うけれども、向こうから離れて行ったり、向こうから仲悪うすると、所謂仲悪うする。
 神様と私共の間でも同じです。そこで神様が私共とまあ仲ようなろうとして下さる働きと云う物がある、又私共も仲ようしょうという、願いを持つ訳ですけれども、そんなら神様が、その仲よいと云うて何時も、撫で摩りばかりしておられる様な事はない所に、所謂信心がある訳です。其処の所を解らせて頂かんと、神と仲ようすると云う事にならない。只頼む時だけ神様と云うのは、仲ようというのじゃないと思うね。
 良い事悪い事、困った事の様な事柄の中にです、どんな事でも神様にお願いをする、お喜びを頂く所謂御礼を申し上げる。そう云う信心が神様と仲ようする信心だとこう思うです。頼む時だけの神様、是は神様と仲よいとは言えない。所謂頼み頼まれる、私共が頼むなら、神様も又頼んで下さる。そう云う所謂これは金光教の御信心の独特の、所謂親に掛かり子に掛かりあいよかけよで立行こうと云う、それがお道の信心です。だから私共が、例えば神様が撫で摩りなさる事だけなら。
 こちらも仲ようなって行けるけれども、そうじゃない。場合には厳しくなら叩きなさる事もあるけれども、それこそ憎くてこの手が当てらりょかという情が、叩かれる事になるのですから、この辺の所が解らんと、神と仲ようする信心と云う事にならない。いくら信心したっちゃ、こんな事が起こって来るならと言うて、叩かれた事を言わば、腹立てたり、それで縁を切ったりする様な事では神と仲ようしているとは言えない。それこそ雨降って地固まるという何かがあればある程に。
 言わば神様と私共の仲が愈々深うなっ行くと言う様な信心を、私は神と仲ようする信心と教えられたんだと思うです。それは私自身の事を思うても、本当に何かがあるたんびに、深い神様の御心の中にじーと通うて行くと同時に、神様のいうならお喜び頂ける御用にでも使うて頂きたいと云う念願を、愈々深く広く思わして頂く様になった。今朝御神前に出て、御祈念をさして頂いておりましたら、高田美和と頂いた。高田浩吉の娘さんがやっぱり女優さんをしております。高田美和と言う人がおりますでしょう。
 高い田、美しい平和の和と高田美和と書いて、どう云う様な事だろう。高田美和と云う事は。是はまあ、高度の信心と云う事でしょうか。同時に美しい和の心と、こう。まあ是は私の信心が高度でそして、美しくてそして、和の心でと云う事ではないと思うんですけれども、結局私共の信心が何時も所謂、程度の低くうい信心ばっかりしておらずに、少しは程度の高い高度な、云うなら、信心になって行かねばいけません。美しいとか和とかいう心は、もう限りが無い物ですね。
 それで私共の信心が高められて行きます時に、それも又は良く解らなかったけれども、高田美和と頂いて、どう云う事だろうかと思わしてもらいよりましたら、この頃伊勢参宮した時に、私共が御礼をさして頂く間、それこそ神風とでも申しますか、几帳と申しますか、幕が下がっているその幕が、さあと上にあがって、そして御祈念を済ますまでは、向こうから押しピンで止めとるような感じで開いてしもうたんですよね。それが又御祈念終わったら、それこそずうっとこう治まる様に。
 幕が降りて行ったその時の情景を頂くのです。まあお伊勢参宮と言やあ、神様も一番偉い神様に、日本でも一番尊い神様、まあそれこそ金光教的にいうなら、天地の親神様というても良いその所謂高神様とこう申します。私は天照大神様、御皇室の御先祖をお詣りしたと云う事は、矢張り天地の親神様に通じる事だと思うんですけれどもね、ああ合楽から来たというて、自分の心を所謂胸襟を開いてとこう申しますね。自分の懐を開いて、受けて下さったような感じがする。
 私は神と仲よすると云う事はね、もう例えば願わんでも、頼まんでもと云う事は、神様が先から先へおかげを下さる。又はあれが言う事ならと云う様にその、無条件に聞いて下さると云う様な信心が日頃仲ようする信心をしとらなければ、頂けんのじゃないかとこう思うです。天地が自由になられると、例えば私共が今度の旅行でも、もうそれこそ置いた物を取るように、ずうっとお天気のおかげを頂いて、愈々大阪で帰られる方、東京に行く者と大阪でその、所でお湿りがあった。
 ひどいお湿りがありました。もう本当にね所謂天地が私共の為に自由になっておって下さる。ね。那智の滝に参りました時なんか、もうそれこそ私共の為に山全体が清掃されたりしておったと、あれがもうちょっと時間がずれておったら、私共は汽車にも間に合う事も出来ませんし、又はお参りもあんなスム-ズな事は出来なかったとこう思うんですが、そう云う風な事を何時も感じます時にです、所謂神と仲ようすると言う事は、天地と仲ようする信心と云う物が、日頃出来ておるからだと思うです。
 ならそれも只、信心しとりますと云う信心でなくて、高田美和的な、段々高度な信心に進ませて頂こうと意欲さして貰うて、そして例えば神様の手足にでもならして頂きたいと云う願いを持っておる、氏子の事は。親の事は子が願い、子の事は親が願う、願い合いをせよと仰る様に、もう神様の事を願い、神様が氏子の事を願うて下さる。只お頼みせんならんけんお参りしよる事では、決して幾らそれがお日参りしょっても神と仲ようしておるとは言えませんです、ね。そうでしょう。
 神と仲ようする信心と云うのは、所謂神様の心の奥が解る。神様が又氏子の心の底が解っておられる。私が良い着物はもう、布一寸買いませんと云う生き方になってもです、神様が、それこそ何十万もする様な、着物でも反物でも下さる所を見ると、私の心の底を知って御座るからです。もう私はそんなものは、道楽なんか思いもしないというても、私の心の中にある言うならば、此処でいろんな美術品が沢山集まって来る、私の好きな物を、神様はちゃんと心の底を読んで御座る。知って御座る。
 それを只要らんと言いよるだけじゃもの。だからやらずにはおかんと、云う働きもあると云う事も、神様と仲ようさして頂いとるからだと思うです。要らんああそんならやるめえと、こんな冷たい神様じゃないと言う事ですよ。いっちょあがんなさらんですか、いいえ要りません、ああそうですかと、こっちは遠慮してから要らんと言いよるとに、そう云う様な場合がありますけれどもそれは仲ようない証拠です。
 仲よい人ならば、そげな事言わんなひとつ食べて見欄のと言うて行くでしょうが。それが仲よい証拠。神様と私共の場合でも同じ事。要らんというても神様がちゃんと心の底を読んで御座る、知って御座る。だからやらずにはおかんという働き。皆さん本当に神様と仲ようする信心をせにゃいかんです。只願う只頼む。だから只それでもおかげは下さいます。けれどもおかげの下さり方が違うでしょう。下さりようが違うです。
 神と仲ようする信心、それにはね矢張り信心が、矢張り高度な信心にならなければ、神様の心が解りません。只子供が親におねだりするように、じだんだ踏んであれくれ、これをくれというだけでは、それはもう決して良いおかげは受けられません。それはおやつ的なものだけです。おかげは本当なおかげは頂かれません。心が助かると言う様なおかげは頂かれません。あの世に持って行く様なお徳と云う様な物は頂かれません。
 神と仲ようする信心、それでは愈々神様の心が解ると云う信心。愈々解れば解る程、信心は高度に成って行かなければおられません。所謂天下国家の事でも、祈り願わなければおられなくなって来る。ただ、自分と云う事だけ願う事だけ、是はまあだいくら毎日時間を掛けて拝みよりますと、例えば言うても、それは神と仲よすると云う事ではありません。今日は神と仲ようすると云う事だけに、絞らせて頂きました。神を恐れる様にすると云う所がまだあります。
 けども今日は神と仲ようする信心とは、どう云う様な信心かと云う事を聞いて頂きました。それには愈々信心を高めさして貰わにゃいけません。そこからね、神様と氏子のあいよかけよの働きと云う物が生まれて参ります。言うならば私共の願いも聞き届けて頂かんならんと同時に、神様の願いも又、私共が聞き届けさして貰わなければ、高度な信心とは言えません。どうでしょう神様の願いをどれだけ皆さん聞きよんなさいますでしょうか。神様の願いをどれ程皆さんが思いよんなさいますでしょうか。
 そこであなた方の信心の程度が解ります。神様の言わば願いを聞かせて貰う。又私共の願いを聞いて貰う。願い合いあいよかけよ。あいよかけよで立ち行くという程しの信心を。だから金光教の信心をしとりゃ皆があいよかけよの信心を頂いとると云う事じゃないです。今日私が申します様に神と仲ようする信心が出来た時に、始めてあいよかけよの信心と云う事であり、あいよかけよの信心から生まれて来る所の、あいよかけよから生まれて来る所のおかげが頂かれる時です。
 私が神様の事をどれだけ聞こうとしておるか、そこを思うと自分の信心の程度が大体解ると思うですね。信心を高めにゃいけません。所謂高田美和じゃないですけれども、愈々美しい心、愈々平和な和らぎ賀ぶ心がです、程度の高い又は広い深い信心になって行かにゃいけません。そして神の願いを受けて立たしてもらう信心になる時にです、氏子の願いを神様が受けて立って下さる事になるのです。そこに始めてお道の信心の独特、所謂独壇場と言われておる、あいよかけよの道が開けて来る訳ですよね。
   どうぞ。